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2005年1月17日 (月)

参観日にむけて 震災を振り返る

子供の学校では、今週の授業参観で震災についての授業が行われるそうで、子供たちに伝えるために、震災当時の様子・体験について書いて欲しいというような依頼がありました。
「思い出したくないことも多いと思いますが、出来るだけお願いします・・」ということなので、自分のまわりのことに絞って、以下のものを書いて、子供に持たせました。

早朝、突き上げるような振動で目が覚めました。その瞬間大きな地震が来ることを直感した地震に慣れている東京育ちの夫は『来るぞ』とじっと伏せて身構え、まもなく、ゆっくりぐらぐらと大きな揺れが続きました。その間、ずっと、食器が割れたり、家具が倒れたりする大きな音。すぐ隣の部屋で子供が寝ているベビーベッドの上には落ちてくるものはないことを確認していましたが、部屋の端にあったベッドは、子供ごと中央まで動いていました。
寝室以外の部屋は、足の踏み場はありません。素足で歩くとケガをするので、靴を履き、部屋を歩きました。
懐中電灯とラジオを用意し、防寒用に服を着込み、避難場所の小学校へ移動したのですが、道中、古い家は完全に崩れていました。小学校の運動場は大きな亀裂が入り分断されていました。集まってくる人たちは着の身着のまま、ラジオを持っている人が殆どいなくて、私たちの周りに人が集まってきましたが、それでも、まだ詳しい様子がわかりませんでした。
空が明るくなるのを待ち、家に戻りました。当時、我が家はマンションだったので、水道水は貯水タンクにまだ残っていると判断した夫は、すぐ風呂にいっぱいの水を貯めました。台所でもありったけの鍋に水を貯めました。昼にはもう蛇口から水は出なくなりました。
何から手をつけようと落胆しながら、少しずつ片付けていると、午後になって、電灯がつきました。電気が早く復旧したところとそうでないところの格差は大きかったでしょう。冷蔵庫も、暖房機も使うことが出来ました。情報を得るためにテレビをつけ、ここで初めて事の大きさを知ったのです。
映し出される街並みは、どれもよく知ったところばかりですが、景色は全く違いました。建物も道路も線路も崩れているだけでなく、あちこちから真っ赤な炎と白い煙が上っています。とんでもないことになっている・・・身体が固まって何も出来なくなり、涙がとめどなく流れました。
悲惨な状況を確認した夫は、片付ける手を止めて、会社に様子を見に行くことにしました。道路は混乱しているので、原付バイクで、通れる道をより分けて行ったそうです。
子供はまだヨチヨチ歩き、片言しかしゃべられない歳でしたが、とてもおとなしくしてくれていました。が、この夜、熱を出してしまいました。病院にはケガをした人や重病人があふれているはず・・・熱くらいで病院には行けません。様子を見ながら、かかりつけの医者からもらっていた解熱剤を飲ませました。子供は少々熱があっても元気な笑顔を見せてくれるのが、どれだけ勇気付けてくれたことでしょう。
まとめ買いをしていて、食料にはしばらく不自由しませんでしたが、子供が飲む牛乳がまもなく底をつきました。
避難所生活をしなくて済んだので、出来る限りは自分達でしました。バルコニーに子供用のプールを出し、雨水を貯めたおかげで、トイレ用の水に飲料水を使うことはありませんでした。
それでも、不自由したのは水。給水車が昼間にマンションの1階まで来るものの、夫は会社で復旧活動に携わるため、私と子供だけで、ポリタンクいっぱいにした水を階段で運ぶことはできませんでした。
われずに残ったわずかの食器にラップをかけて食べ物を置き、食後、ラップをはずして捨てることで、水の消費を減らしました。エレベータが動くようになってから、小さな子供が空のタンクを載せた台車を押して手伝ってくれた姿は微笑ましく、周囲の大人の気持ちを和ませてくれました。
電話回線は10日後に復旧、1月末にようやく郵便物が届き始めました。水道は2月の下旬に制限付で、ガスは3月上旬に復旧。親類の家に行くこともしないで、自宅でなんとか乗りきりました。余震が怖くて、夜は避難用品を枕元に、服を着たまま、電気をつけて寝る日が2ヶ月くらい続きました。
命が助かったことだけで十分、貴重な体験ができたと思います。
東京から交通機関を乗り継ぎ牛乳を届けてくれた同僚、大阪から電気炊飯器を抱えて自転車で来てくれた親戚、お風呂や洗濯機を貸してくれた友人、沢山の励ましのお見舞いももらいました。
全てに感謝し、震災10年の今日を迎えました。

宿題として提出したのは以上です。
新潟の地震もそうですが、被災の度合いは、同じ地域でもさまざまで、私の住んでいるところから、車で10分も北へ上がれば、流通も普通に行われ、食料、生活用品は全て揃いました。
しあわせの村という神戸市の福祉施設の温泉が無料開放され、ゆっくりお風呂に入れたときにの喜びも忘れられないことの一つです。
ここは、広大な面積で、支援活動をする自衛隊の基地となり、沢山のテントが並び、ヘリコプターも停まっていました。間近で見ることなんて、そうあることではないでしょう。
沢山の人が亡くなり、希望を失い、ある意味戦場と同じだったかも知れません・・・
当時どんな活動ができるかわからず、現地入りしたボランティアも、今ではずいぶん意識も高まり、形になってきて、各地で活動しています。政府や自治体の災害時の対策や体勢も少しずつですが、整ってきています。
まだまだ完全な復興はされてないのかもしれませんが、教訓を活かし、あたたかい人間関係の中で、みんなが生きていけたらいいなと思います。

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